もしかしたら、意外と身近に「吃音」を抱えている方がいるかもしれません。吃音とは何か、そして現在吃音を抱えている方に向けた応援記事です。
はじめに
人間はいろんな形や表現でコミュニケーションをとっている。
表情や目線、しぐさ、身にまとう雰囲気だったりときには音を使ってコミュニケーションをとる。
一番使われているコミュニケーションの方法は何だろうか?
私は「言葉」だと思っている。
一日に一体どれだけの「言葉」が使われているだろう。人と会話をするときやこうして文字で文章を組み立てられるのも「言葉」があるからだ。
おそらくほとんどの人は無意識に「言葉」を操っている。
「声に出して言葉を発する」ということに何の違和感も持たずに日々を過ごしているのだろう。思いついたときに思いついた言葉を瞬間的に発したり、ときにはじっくり考え言葉を紡いでいるのだ。
人類の何%になるのかは分からないが、なかにはさまざまな事情で声が全く出せない人もいる。そういう人達は手話や筆談などを利用して言葉を使う。
その人類の「何%」のうちに入りたいと、何度心の底から思ったことだろう。
私が抱えているものが「吃音」というものだと知ったのは小学5年生の家庭訪問のときだった。
担任の先生が母に伝えた言葉を今でも覚えている。とても穏やかな声だった。
「はるさんには、『キツオン』がありますね。」
そして私にこう言った。
「話すのはゆっくりでいいからね。」
幸か不幸か、私の家にはパソコンがあったので『キツオン』という単語を調べてみた。
そこに書いてあったのは、私がずっと「虫歯のせいだ」と思い込んでいた現象の数々だった。
続けてこう書いてあった。
「原因は不明」「治ることはない」と。
出口の見えない迷路
学生時代、新学期を迎えるたびに自己紹介をするのが怖かった。
授業中に音読が始まると分かった瞬間はいつも心臓が飛び跳ねる。そして自分がどの段落を読むことになるのかを逆算し、頭の中で何度もシミュレーションをした。
問題の回答を求められたとき、本当は分かっていたのに吃音の症状が出るのを察して「分かりません」と首を横に振ったこともある。
笑われ、真似をされ、ときには言葉を飲み込み、いつ症状が出るのか分からない不安を抱えながら生きてきた。
「言葉がつっかえるんです。」と言うと返ってくる言葉は大体似ている。
みんなそういうのある、だとか、スムーズに話せてるよ、とか。
「気にすることない。」
そう言った人間ひとりひとりに問い詰めたかった。
「ありがとう」というただそれだけを伝えようとしたときに最初の「あ」で約1分間つっかえたことがあるのか。
何十回、何百回と練習したはずの文章を本番で何度もつっかえたことがあるのか。
言葉がつっかえて「何だこいつは」って顔をされたことは?
たかが自分の名前で何度も何度も何度もつっかえたことがあってもそう言えるのか?
胸ぐらをつかむ代わりに笑って受け流した自分を心底褒めたい。
「吃音」というのは非常に厄介だ。「中途半端に話すことができてしまう」から「話せているじゃないか」と思われてしまう。
「それならいっそ声なんか出なくなればいいのに」と心の底から思った。
今振り返るととても失礼なことなのだが、そう思ってしまうほどつらかったのだと大目に見てほしい。
高校卒業後、進学しなかった私は接客のアルバイトを何度か経験したが、どれも長続きはせずに終わった。
アルバイトの面接を申し込むために電話をかけようとしても、吃音の症状が出ないかと不安にかられて何度も番号を入力しては消すことを繰り返した。
もし電話が上手くいっても、その先には面接がある。
面接が上手くいっても、その先には他者とのコミュニケーションがある。
「八方ふさがり」。
その言葉通り、私は「言葉」という大きな壁に囲まれていた。
「劣等感」というヘドロを身にまとった私は、気がつけば引きこもるようになっていた。
3年ほど引きこもり生活を続けた。頭の中では毎日脳内会議が行われたが、そのたびに「外の世界に出るのは怖いです」という意見でまとまるという何とも無駄な会議だった。
小さくて大きな一歩
しかし、いつしか恐怖心よりも「助けてほしい」という気持ちが勝るようになった。
携帯電話を握りしめて、必死になって助けを求められる場所を探した。
そうして見つけたのが、「就職・生活支援パーソナルサポートセンター」だった。
何度も電話をかけようとしては諦めてを繰り返して、実際に足を運んでみようと建物の目の前まで行っては怖くなって引き返した。
人間という生き物はどん底の床にぶち当たり続けていると、ときに自分でも驚くような行動をとる。
「今日やらなければ一生このままだ」と思った私は、震える手で通話ボタンを押した。
電話の向こう側から聞こえる声はとても優しかった。
困っていることをいろいろと話したあと、現在住んでいる市の役所内にあるパーソナルサポートセンターに一度お越しください、と告げられて電話は終わった。
通話が切れた途端、涙が止まらなかった。
引きこもり生活が始まって以来、初めて生きた心地がした瞬間だった。
そして今、こんな根暗を凝縮して出来たしぼりかすのような記事を書いている私がいる。
個人的に書いているのではなく、「働いている人間」として書いているのだ。
最後に
人間はいろんな形や表現でコミュニケーションをとっている。
こうして文字を打っている私も、今この記事を読んでくれているあなたと文字を通してコミュニケーションをとっているのだろう。
働けているけれどヘドロは今でも私の体にまとわりついているし、他者との会話に不安を抱いていることに変わりはない。
それでも、歩幅は小さくとも確かな一歩を踏み出すことができたのだ。
他者に助けを求めることは容易ではない。
自分自身に劣等感を抱いていたり、「話す」ということに恐怖を感じるのなら、とても勇気がいることだろう。
あなたはひとりではないということを、どうか覚えていてほしい。
励ますことも背中を押すことも私にはできないが、手を差し伸べてくれる人はあなたが想像しているよりもきっと多いはず。
「がんばれ」という言葉はときに残酷で無責任だ。
それでも、あなたが私と同じく吃音を抱えているのなら、歯を食いしばり生きているあなたに伝えたい。
がんばれ。