障害を抱えながらも家族を支える役目を負うあなたへ。一人で抱えないで周りに頼って欲しいという思いのメッセージを込めて。
2021年の春、母は眠るように息を引き取りました。
その2年前の夏に母と私は診察室で母の膵癌の診断をうけ、母の残された時間がわずかだと知らされました。
少し覚悟はしていたのですが、やはりショックでした。診断を受ける前に幾度なく入退院を繰り返し、どこか麻痺してしまっている部分もありました。
放射線治療と抗癌剤治療が始まり、母は激しい嘔吐に襲われて苦しそうでしたが、私にできることはそばにいることだけ。
私はこの先、進行して行く病気で母はどうなるんだろうと不安で不安でしょうがなかった。でも、母の前では出来るだけ笑うようにつとめました。母が笑っているのに自分がめそめそしてもしょうがないと自分に言い聞かせていたのです。
私にできることはなんでもない日常を母と過ごすことでした。その頃ピアノ教室に通い始めた私は発表会に出るためにピアノの練習をしていました。辞退を考えたのですが、母との最後の思い出になるかもしれないと練習を続けることにしたのです。
発表会当日子供たちに混ざって私は舞台で弾き語りを披露しました。母は「あんたの演奏が良かったよ」と満足げに言いました。
これがまだ元気だった母との温かい思い出です。
それからは段々とふくよかだった母は痩せていきました。お腹の痛みや気分が悪いとうったえてくるようになりました。
私には弱音をはいていたのですが、主治医の前になるとどこも悪くないと言い張るのです。私が仕事のために母一人で診察に行ってもらった時には特にそうで、主治医を困らせていました。
辛い症状など主治医と相談して適切な治療が必要なのに意地を張るんです。しかたなく私も一緒に受診をすることにしました。
コロナの影響で在宅ワークを強いられた頃には私はメンタルが不安定になっていました。昼間は笑顔で一緒に買い物をしたり料理をしたりしていましたが、夜は泣いていたのです。頓服と安定剤など薬の量も増えてきていました。
唯一の支えとなっていたのはネットで知り合った多くの人たち。ラジオ配信でチャットを介して主とメンバーさんたちと会話を楽しみました。
ある晩、母はいつもより激しい嘔吐にみまわれした。すぐに相談の上病院へ連れていき、検査を受けたのですが。結果は「危ない所でした」とのこと。その場で入院させるか帰るかを判断させられましたが、入院させることに決めました。こんな判断がこの先続くのかと思った時に大きなプレッシャーを感じたことを覚えています。
緩和ケアが必要だと感じた私は母と家族にその話をしました。しかし、離れて暮らす姉たちは「まだ必要じゃない。オーバーだ」と。この時は大きなショックで怒りすら感じていました。ただ今思うのは姉たちも現実を受け入れられなかったのかもしれません。
なかば逃げ出すように家を出て一人暮らしを私は始めました。
しかし、母が気がかりな私は在宅ワークの制度を利用。おかげで昼間は母のそばに居ることが出来ました。
この頃には緩和ケアのために訪問看護を入れることが出来て気持ちがほんの少し軽くなっていました。ただ、母の命がもうすぐ終わるという意味でもあり気持ちがはれることはありませんでした。
また、担当医師が変わり在宅訪問で家に診察をしに来てくれたのですが、母は仰々しいと気にしていました。
それでも、母が多くのサポートを受けられることは私にとって何よりの励みになりました。
その後、私以外に父にも段々と介護の疲れが出てきたところで母が入院となりました。緩和ケアを受ける際に家族とサポートしてくれる医師や看護師、サポーターで話し合った通りになったわけです。
さらに、コロナ対策のために面会は父と姉妹のみとなっていました。これに関しては「もっと多くの人がこれたらよかったのに」と今でも残念な気持ちになることがあります。
仕事が終わって母の病室に通ったのはほんの2週間くらいだったでしょうか。あまりにもストレスと疲労ではっきりとは思い出せないのですが長い時間に感じられました。
母の筋力は段々と衰え一人でトイレやお風呂に入れない状態になっていき、泣きたい気持ちをおさえて母の身の回りの世話をしました。母の眠る時間も長くなり、ついに看護師に呼ばれて母が残り一週間もないと最後の時を告げられました。父は動揺してその場から飛び出してしまったのですが、私は最後に母の気持ちに沿いたいと思い母に最後にどうしたいと聞きました。
「みんなに会いたい」
それが答えでした。
今すぐにでも死んでしまう可能性があるなかで看護師と相談して日時を決めて最後の時間を作ることになりました。気が抜けない時間でした。
最後の時間となる日、母は眠っていました。時々目を開けるのですが体の活動が低下していて起きることが出来なかったのです。今ではあの時どう思っていたのだろうと考えてしまいます。
やっとの思いで家に着いた頃には母の姉妹や子供、孫が待っていました。
眠った状態でしたがひとりひとりと別れの言葉をかわし握手を丁寧にしていく母。孫の手を握ったまま眠ってしまった瞬間もありました。最後なんだと皆が感じた瞬間でもあったでしょう。
母のもう一つの心残りは父の誕生日のお祝いでした。
花束を用意して母から父へ渡してもらおうと準備したシーンで母から「一緒になれて良かったよ」と母の気持ちが込み上げて泣きながら母は父の手を握りました。
私も思わず泣きそうになりましたがグッとこらえました。
その翌朝5時に母はこの世を去りました。
今でも母のあの時の対応はあれで良かったのかと考える瞬間があります。
ある本には「介護は亡くなった後でも続く。」とありました。
今まさにその最中です。