障害者の中には、中途で(つまり、人生の途中で)障害を持つ人たちがいます。その人たちを「中途障害者」と呼んだりもします。
そして、私もその中の一人です。
これは誰にでも起こりえることです。
ですから、今回は中途で障害を持つと何を思うのかちょっと話してみます。
はじめに
私が視覚障害者であるという話は何度もしてきましたよね。
ただ、生まれたときからずっと視覚障害者というわけではないんです。
そうなったのは、28か29歳ごろだったと思います。
つまり、中途で障害を持つことになったのです。
そして、中途障害者となってくるといろいろと考えさせられるわけです。(適当に生きていくつもりだったんですけどねぇ~)
そこで、今回は適当に生きていこうと思っていた人間がそうはいかなくなった経緯を少々話したいと思います。(時間のある方だけどうぞ)
うすうす感じていたけれど…
DanaTentisによるPixabayからの画像
私は小さいころから目が悪くて(これもおそらく病気が原因だと思うのですが)、10歳くらいから眼鏡をかけています。
おかげで、自分ですら眼鏡を外したときの顔が良く分かりません(笑)
ですから幼いころから視力は良くなかったのですが、14、5歳のときに目の周りに虫のようなものが飛び回るようになったんです。
いわゆる飛蚊症です。
そう診断された際に、
「あなたは目の周りの血管が細いので網膜剥離になる恐れがある」
と、今の病気(網膜色素変性症)が発覚するだいぶ前に告げられていました。
なので、「いつか何かしらの目の病気になるだろう」と覚悟はしていたのです。
ただ、それからしばらくは何事もなく生活を送っていました。
しかし、いつからかはっきり覚えていませんが、だんだん階段を上手く上り下りできなかったり、車のライトや反射した光をまぶしく感じたり、地面に置いてあるものを良く蹴飛ばすようになったりと感覚に微妙なズレや異変を感じるようになったのです。
網膜剥離になる可能性も告げられていたので、うすうす何かヤバい目の病気だろうとは感じていたのですが、やっぱり何かを知るのは怖いんですよね。
そして、知りたくないがためにしばらくは「大丈夫!」と言い聞かせ、ごまかしながら生活をしていました。
でも、そんなことは長続きしません。(まぁ、だいたいそんなもんです)
結局、夜ものが見にくいことに身の危険を感じて病院で診てもらうことにするんです。
案の定、難病(つまり、ヤバい病気ってことね)の網膜色素変性症と診断されます。
そして、病気の進行具合から障害手帳が取れると言われ、それを取得することで晴れて身体障害者となるわけです。
ちょっとベクトルが違う気が
Steve BuissinneによるPixabayからの画像
中途で障害を持つと先ほども話しましたが、いろいろと考えさせられます。
私の場合は、病気と分かってから手帳を取るまでの2、3か月の間は無職でしたから、嫌というほど時間はありました。(正直、無職は3日で飽きます)
望んだわけではないけど、時間はあるので「中途で障害を持つこと」についてあーだこーだ考えるわけです。
すると、生まれたときから障害を持っている人と中途の人とでは考え方のベクトルが違うんじゃないかと思い至るのです。
憶測にはなりますが、生まれたときから障害を持っている人やその周辺の人にとっては、障害を持っている人が今までできなかった何かができるようになったり、就職などで自立できるようになったりするのは喜ばしいことのはずです。
なので、考え方として「どうすればできるようになるか」という方向に進んでいくと思んですよ。
これだと物事がプラスに向かっていきますよね。
でも、中途だと逆です。
今までできていたことができなくなり、「一体、何だったらできるのか」となっていきます。これは憶測ではなく、私自身が実際そう思いました。
このままそう思っているだけだと悲観的であり、苦しいだけです。
ですから、私は、これを「一つの事実が判明しただけ」と思うようにしたのです。
そう思えば、現状自分が何ができて、何ができないのかを冷静に判断できると信じたからです。
それに、これから関わるであろう様々な形で障害を持った人たちに対して偏見や思い込みを極力抑えて接することができるだろうとも思えました。
進行性はタチが悪い!
xaviandrewによるPixabayからの画像
「現状を知る」
そのつもりでいてもなかなかそうさせてはくれないのが、網膜色素変性症という病です。
この病気は進行性です。
しかも、症状が進行して変化に気づくようになるまでに時間がかかります。
そのくらい進行スピードはゆっくりです。
ですから、現状を知ったとしても、その状態がずっとそのままというわけにはいかないんです。
徐々に徐々に進行していき、気づけば感覚がおかしくなっていて、また一つできないことややりにくいことが増えるの繰り返しだと思っています。
ただ、それでもやはり、症状が進むことに対する不安感や、できないことが増える屈辱感は拭いきれません。
しかし、これもそういった感情が湧き起こるという事実または事象だと捉えています。
(まぁ、そうでも思わない限り、心の拠り所がないといったのが本音ではありますが)
事実や事象としてしまえば、あとそれに対してどう対処したらいいか考えるだけかなと思っています。
また、病気が進行することにしても一つの事象でしかないのです。
なら、それもまたどう対処していいか考えていくだけ。
それが重要です!
結局、開き直ります
「何で事実や事象と割り切れるのか」
と不思議に思った人も中にはいますよね。
ようは、開き直りです。
私が、泣こうがわめこうが悲しもうが病気が一切治るわけではないんです。(もし、そうならわめき散らします!)
「何をしたところで病気は治らない」
そう思えたとき開き直れたんです。
そして、いっそのこと清濁併せ呑むではないですけど「現状治らない病気であること」や「生活が不便になること」など不都合なこと全てを飲み込んで受け入れてしまえば楽になれるんじゃないかと思ったんです。
実際、気持ちが楽になり、思いっきり楽しもうと考えられるようになりました。
ただ、今でもちょいちょい不安やイラ立ちといったものが顔を出してきます。
でも、それらも長い付き合いになる人生のパートナーとでも思えば楽しいものです。(こっちには付き合いを断る権利はないんですけどね)
そして、この開き直りようなものがあるから、今の自分がどうにか立っていられるのだと思います。
さいごに
医師の話によると、私の病気は生まれたときから発病し、進行していたとのことです。
つまり、私はこの病気と共に成長していたとも言えるわけです。
ですから、病気の症状によって性格や考え方を形作られた部分があると思っています。
病気の全てを否定はできないのです。
否定してしまえば、自分の一部を否定するようなものです。
そんなことをして苦しい思いをするよりも「自分を形作った要素の一つとして受け入れていく方が健全かな」と思っています。
それに病気が発覚して視覚障害者になっていなければ、今いる会社にたどり着くこともなかっただろうし、行動を起こさなかったかもしれません。
そういった意味では、この病気に感謝しています。
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